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Yamotty Blog

プロダクトマネージャーの雑記

父のように在りたい

父のように在りたい

この前仕事の仲間と話している中で、「自分の父をどう思うか?父のようになりたいか、なりたくないか?」という議論になった。
特に男性から見ると、多くの場合「自分の父親のようにはなりたくない」という回答が多く、おなじ質問を別のクラスタの人にぶつけても、”否定派”は多い。

ところが私は逆。真逆も真逆で、成人の前後くらいからずーと「父のようになりたい」と思い、また周囲にもそれを隠さず話してきた。
最近では「父のようになりたい」というより「父のように在りたい」という話し方を好んでする。
父のような職業だったり趣味をもちたい、という話ではなくて父のような人格、to beをリスペクトしてそう話すようになった

頑固で怖かった父

私の父は昔から極めて頑固で、patiantという言葉を知らない”the OYAJI”だった。運転する信号の中で赤信号に切れて怒鳴り散らす程度には切れやすい男で、その点はぶっちゃけ嫌いだった。還暦を超えた今では、大分丸く、優しくなったけれども。
そんな父はふたりのこども(私と妹)にも容赦無いしつけを施していた。今でも思い出すのは私が一度母に怒って背中に平手打ちをした時のこと。たぶん6歳とかそのくらいの時。その時の父の怒りっぷりは今でも忘れない。

ものすごい剣幕で「女を殴る奴はクズだ、お前は今、誰に何をしたかわかっているのか」
言い終わる前に服の襟を掴まれて引きずられ、反省する間もなく玄関から放り出されて鍵をされた。極寒の冬だったと思う。田舎だからこそ出来た躾だと思う。
この例にかぎらず、いまではそこまで怒ってくれたことに、本当に感謝している。人を怒ることは、たとえ身内であったとしても、とてもエネルギーが要る。私も親になったときに絶対に外したくないな、と思っているのは「怒ること」だ。必要ならば、怒ることに対しては絶対手を抜きたくない。

医者を目指すも、教師として

父は野口英世に憧れて医者の道を目指し続けたがほんのちょっとだけ才が足りず、青森から北海道大学の理学部に出て、そして高校の教師に就職して2012年3月までその職業人生を教師として全うした。今では大学の講師と、親戚や友人の農家のお手伝いをしている。
「絶対に教師にだけはなりたくなかった」
よく父は私にそう話していたが、毎日職場へ向かう彼の表情からは本心なのかどうか全く読み取れなかった。父は職場であった嫌な話は絶対に家庭に持ち帰らないというポリシーの人間だった。その代わり、ではないけれど、良いことはなんでもシェアしてくれる。彼はそれなりに、教師という職業を楽しんでいたように見えた。こと教師という職業に関してはちょっとした才もあったようで、教頭、校長と上り詰め、最後は地元の進学高校であり、父の母校であり、私の母校であり、妹の母校でもある弘前高校の校長を務め上げて、そして退職した。

毎年、彼の元を巣立った生徒や、共に働いた同僚たちから大量のお歳暮や年賀状が彼のもとに届く。
「めんどくせぇなぁ」と言いながら、嬉しそうに眺めているのを長男も長女も知っている。最近では僕の嫁も知っている。

判断のサポートはする。でも決めるのは自分。

我が家は教師一家で、母が小学校、妹が中学校、そして父が高校の教師と揃いもそろっている。父はその中でも、コーチングのプロだと思っている。
それは子ども(私)に対しても、また周囲の人々に対しても一貫して通じる姿からそう感じている。
重要な決断に迫られたとき、父は全力でサポートしてくれる。それは知識の面であったり、モチベーションのことであったり。
しかし一度決断をしたならば、父は絶対に批判をしない。どんな決断であれ、必ず肯定してくれる。

とてもちっちゃな喩え話だけれど、私が大学受験のエピソードがある。

私はいわゆるセンター試験に大失敗した。東北大学という第一志望の大学に向けて秋ごろから準備をしていた私は、センター試験にて入学者の平均を100点程下回る点数しか獲得できなかった。多くの友人から、志望校を変えるよう勧められ、担任はあえて無言だった。父も、合理的に判断するなら志望校を変えるのが得策ではと思っていたに違いないが、私の答えは決まっていて、そのまま東北大学へ突貫し、無事合格を果たした。
当時単身赴任だった父に、突貫の意志を伝えたとき、「そうか、好きにしろ。」と言われたことが私の背中を後押ししたのは間違いない。実際はセンター試験の結果に傾斜がかかり、2次試験で十分に挽回が可能な範囲だったのでほんとうに助かった。後日「ほぼ浪人を覚悟したけど、まぁよくやったな笑 びっくりしたよ」とねぎらいの言葉をもらったのはよく覚えている。

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父は、「自分の人生を決めるのは自分でしか無い。大事なことは自分で決めろ」というスタンスを3歳であれ20歳であれ、常に言い聞かせてくれた。そのスタンスが常に考える癖を与えてくれたと思っている。父は自分の人生に対しても、それを貫き通している。

赤信号にすらイライラしてばっかりで短気に映る父には、実は決断をそっと支えるコーチングの力と、なにより決断を信じ、万一の際には受け止めようとする包容力が有る(現に、私が受験に失敗した時のために予備校の準備をしていてくれた)。
「信じて支える」
簡単なようで、たとえ家族に対してでも100%そのスタンスを貫くことは難しい。それでも父は常にそう在る(ように見える)。

私はやっぱり、父のように在りたい。