Yamotty Blog

プロダクトマネージャーの雑記

コミュニティとは何か

実家の青森は弘前に帰ってきています。今年は雪が久しぶりに多く、息子の眞志も初雪と戯れています。仕事はもうしばらく納まらなさそうですが、つらつらと考えたりすこしゆっくりする時間をとれています。

この田舎にいると、都会とは違うコミュニティの性質にはっとすることがあります。

コミュニティとはなにか

僕の実家には車で3分の絶好の位置に大衆温泉があり、大人350円という破格のため帰省中は毎日温泉に浸かります。で、温泉の中って暇なので、なにかテーマをもうけて浸かるのです。この2日考えていたテーマは、「コミュニティとはなにか?」。辞書の定義を求めているのではなく、本質的な現代におけるコミュニティの意味を問いに設定してみました。

背景には、弘前がコンパクトシティ化を構想していると聞いたところから始まります。
いきなりそれますが、コンパクトシティって街の必要機能を中心部にグッと集め、過疎地域の住民も中央に集めて住みやすくし、諸々のコスト削減と住みやすい街を作ろう!という構想です。しかしはじめからこれが成功するとは0.1mmも思えないのです。無理です。

理由は、土地への愛着心は街の機能の便利不便より多くの人にとって重要だから。そもそもコンパクトシティ構想は東京ではなく地方の話なので東京の感性ではこの理由は理解できないでしょう。とりあえず田舎でコンパクトシティやろうとおもったら最後の一人が死んで誰もいなくなった村から始めるくらいじゃないとうまくいかないでしょう。東北の被災地でも散々津波の被害を受けたあと漁師の方々が産みの周辺に戻っていくのと根底は同じかもしれません。

話を戻すと、コミュニティとは何か、という問いに対し以下のように考えました。

  • (コミュニティ)=(コミュニケーション)>0の場
  • (コミュニケーション)=(コミュニケーション量)×(コミュニケーションの質)

僕の仮説だとコミュニケーションが生じるところはすべてコミュニティと定義してしまいました。

かつてRCF似いた際に藤沢烈代表に「コミュニティとはなにか?」と尋ねたところ「人の集まるところ」と話されていましたが、結構近いかもしれません。ふたり以上の人間がいないとコミュニケーションは成り立たないので。

仮説の根底にあるのは、コミュニティとは場所を起点にするものでは決して無いということ。
「タワマンがコミュニティがないことが問題」
「近所の助け合いのようなコミュニティが昔はあった」
このあたりの話を聞くたびに疑問を感じていました。FBやlineでのチャットをコミュニティとは呼ばないのか?果たしている機能はコミュニティであると思います。

コミュニティは活きる上で必要不可欠なもの。なぜなら承認欲求という飲食睡眠の次に重要な要因を満たしてくれるのがコミュニティであるから。安定した飲食睡眠の得やすい現代においてより重要な欲求である場合もありそうです。

かつては時間と場所を超えてコミュニケーションを他者ととる手段が限定的だったので必然的に近所の顔の見える範囲、すなわち場所を起点としてコミュニティが生まれていたが、手段が確立し普及している現在ではコミュニティの機能は場所に依存せず、アメーバのようにさまざまな機会に生じているのだと思いました。サウナで。

結論、コミュニケーションをとることが出来る場を広くコミュニティとこれからは呼ぼうと思います。