Yamotty Blog

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道で己に逢えば、己を殺せ

僕は強烈な意志をもって行動をしている人を目にすると、同じく強烈な衝動を覚える。自分の意志は同じように意志をもつ人達によって支えられる側面がある。「志」という言葉が好きで、息子に授けたくらいだ。

「芸術は爆発だ」でよく知られる芸術家の故・岡本太郎は死没するまで創作活動を続け、自身の意志を表現し続けた稀代の情熱家でもある。

自分の中に毒を持て(文) (青春文庫)

自分の中に毒を持て(文) (青春文庫)

意志は意欲(欲求)と思想の掛け算だと常々思っている。
岡本さんの意志の源泉が感じられる、その触りにこの本は触れさせてくれる。抜粋に僕の中二的な解説を加えて、そのエッセンスを読み取ってみよう。

道で己に逢えば、己を殺せ

臨済禅師という方はまことに立派な方で、「道で仏に逢えば、仏を殺せ」と言われた、素晴らしいお言葉です、という一節があった。有名な言葉だ。ぼくも知っている。確かに鋭く人間存在の真実、機微をついていると思う。しかし、ぼくは一種の疑問を感じるのだ。今日の現実の中で、そのような言葉をただ繰り返しただけで、果たして実際の働きを持つだろうか。とかく、そういう一般をオヤッと思わせるような文句をひねくりまわして、型の上にアグラをかいているから、禅がかつての魅力を失ってしまったのではないか。で、ぼくは壇上に立つと、それをきっかけにして問いかけた。「道で仏に逢えば、と言うが、みなさんが今から何日でもいい、京都の街角に立っていて御覧なさい。仏に出逢えると思いますか。逢えると思う人は手を挙げて下さい」誰も挙げない。「逢いっこない。逢えるはずはないんです。では、何に逢うと思いますか」これにも返事がなかった。坊さんたちはシンとして静まっている。そこでぼくは激しい言葉でぶっつけた。「出逢うのは己自身なのです。自分自身に対面する。そうしたら、己を殺せ」会場全体がどよめいた。やがて、ワーッと猛烈な拍手。

臨済禅宗のなかにある「道で仏に逢うては仏を殺せ」という言葉がある。なお、これは殺人を意味するものではない(笑)

「仏」という存在は人間が創りだした既成概念のオマージュであり、「仏様はありがたい」に代表されるような所詮は人が創ったかりそめの区分に囚われるな、という意味である。このことわざを用いて作られた岡本太郎の「道で己に出逢えば己を殺せ」という言葉には次のような思いが込められている。

人生を真に貫こうとすれば、必ず、条件に挑まなければならない。いのちを賭けて運命と対決するのだ。そのとき、切実にぶつかるのは己自身だ。己が最大の味方であり、また敵なのである。

人が自分の道を見つけ、何かにチャレンジするとき、いつも敵は自分だ。

僕らが意志を持ち道を行くとき、最大の敵は己自身だと自覚する必要がある。

真剣に遊ぶから、命は燃える

ゲレンデの頂上に立つと、目もくらみそうな急斜面だ。こんなところで滑ったら、猛烈な勢いですっころんで、首の骨でも折って死んでしまうんじゃないか。ウーム! 迷った。  こんなところで死ぬのもカッコウ悪いな。  しかしここまであがって来たのだ。来た以上、やってやろう。死と対面することこそが、いのちを燃やす真のよろこびじゃないか。  決意して、滑りはじめ、歯を食いしばって突っ込んで行った。とたんに、ステーンと、凄い勢いで転倒した。頭から新雪の中にもぐってしまい、何も見えない。だが嬉しかった。何か自分が転んだというよりも、ぼくの目の前で地球がひっくりかえった、というような感じ。地球にとても親しみを覚えた。  ぼくはつくづく思うのだが、好奇心というのは、そのように生命を賭けて挑む行動に裏打ちされなければ、生きる感動としてひらかないのではないか。  だから、それはただの「お遊び」では駄目なのだ。全生命、全存在を賭けて、真剣に、猛烈に遊ぶのでなければ、生命は燃えあがらない。いのちがけの「遊び」と、甘えた「お遊び」とは、まったく違うのである。

アメフトやラグビーなどのコンタクトスポーツに親しんできた僕にとってこの抜粋はとても腑に落ちるものだった。

タックルやヒットは怖い。でも恐怖を超えて、いつもより相手に強く当たろうと踏み込む一歩をより深くした時に、はじめて「学び」の瞬間が訪れる ー そんな経験が何度もある。

スポーツは遊びであって遊びではなかった。命を賭けてプレイしているし、トップアスリートはみなそうだと思う(僕はトップアスリートではなかったが笑)。

意志とは運命への賭けた時に生まれる

世の中の一般の人は、あの人は意志が強いから、これだけのことをやったんだと評価するかもしれないが、今言ったように、それは順番を取り違えているんだ。  繰り返して言う。うまくいくとか、いかないとか、そんなことはどうでもいいんだ。結果とは関係ない。めげるような人は、自分の運命を真剣に賭けなかったからだ。  自分の運命を賭ければ、必ず意志がわいてくる。もし、意志がわいてこなければ運命に対する真剣味が足りない証拠だ.

「運命を掛ける」というのは、右も左もわからないシチュエーションでも、とりあえず飛び込んで見る。そのなかでもがいてみる。

そうするうちに「ああしたい」「こうしたい」というビジョンが生まれ、意志となっていく。意志は初めから持っているものではない。創るものだ。

真の意味で、人一倍意志が強い人というのは、行動してきた人なのだ。

勘違いされたプライド

ぼくは、プライドというのは絶対感だと思う。  自分がバカであろうと、非力であろうと、それがオレだ、そういう自分全体に責任を持って、堂々と押し出す。それがプライドだ。ところが自尊心だとかプライドだと言いながら、まるで反対のことを考えている人間が多い。  他人に対して自分がどうであるか、つまり、他人は自分のことをどう見ているかなんてことを気にしていたら、絶対的な自分というものはなくなってしまう

「人からよく見られる自分を守る」ためのプライドには飽き飽きしている。この類のプライドが強い人は、局面が決まるまで自分の考えを表明しないという特徴をもつ(Yamotty調べ)。

真の自尊心、真のプライドを持つ人の特徴は何か?それはどんな時でもはじめに自分の考え、そして意志を表明できる人だ。彼らには絶対の自分があるから、それができる。そして強い意志というのは表明せずにはいられなくなるものだ

幸せはニブさにすぎない、歓喜を得よ

ニブイ人間だけが「しあわせ」なんだ。ぼくは幸福という言葉は大嫌いだ。ぼくはその代りに〝歓喜〟という言葉を使う。 危険なこと、辛いこと、つまり死と対面し対決するとき、人間は燃えあがる。それは生きがいであり、そのときわきおこるのがしあわせでなくて〝歓喜〟なんだ。

「しあわせ」というのは”点”でしか無い。極論ではあるが、我々が「しあわせ」なとき、地球の何処かでは誰かが飢餓に苦しんでいる。その事実に気づいたとき、簡単には「しあわせ」という言葉を使いたくなくなるだろう。

そんな現状を知りながら、己の使命を見出し、それに燃える瞬間沸き起こる感情を「歓喜」という。「歓喜」は生まれた環境、置かれた環境に関係なく、誰でも持つことができる。使命をみつけ、命を賭そう。

さいごに:岡本太郎と為末大

さいごに、個人的に元トップハードラーである為末大さんと岡本氏の思想に強い類似を感じている。為末ファンの僕は彼のブログが好物で、僕自身がアスリートを志していた時から、彼の心の置き方よく参考にしている。

岡本氏の言う、「歓喜」を上手く表した記事があった。

tamesue.jp

警戒をしている人の最大の目的は”やり過ごすこと”になる。人生を何事もなくやり過ごす。評判を落とすことなく生活を営む。しかしながら、警戒をし続けてし続けて無事、何事もなく人生を終えられたとして、一体人生のどこに喜びがあったのを振り返ることになる。その時、どの光景が頭に浮かぶのだろうか。

山登りの最中に、入山から下山までクマの出現を警戒していたら、その道中には何の楽しさも残らない。 ある程度の危険は脳みそから捨て去り、危険を知りながらも道中へ繰り出すこと。この過程が歓喜を産むのだろう。

僕はもう5年前になる2011年3月11日に、東北大震災を経験してから(そして死なずに生きていることができて)、思考のベースが全て変わった。

なんとなく、その時々の流れに身を任せていた自分が嫌になり、生きる意味はなんぞやを問う毎日だった。その答えを表す言葉こそこの本の指す「歓喜」だと思っている。

「明日死ぬとしたら、あなたはなにをしますか?」

その答えをもつことこそ、使命を見つけることだ。そして、

「今日満足に生きたか?」

この問いに答えをだす生き方こそ、歓喜を感じる生き方だと思う。

すこしいまの人生に迷いがある人におすすめしたい本でした。

自分の中に毒を持て(文) (青春文庫)

自分の中に毒を持て(文) (青春文庫)